昭和40年02月07日 朝の御理解
お小さい時から、信心がお好きでおありになった。お父様の背中におんぶなさる頃から、お父さんが特別信心が、矢張りお好きな方だったらしいですから、教祖の神様のお父様の背中は、着物は何時もこの背中から破れたと、教祖の神様があまりお強くなかったですから。何時も教祖の神様をおんぶして、そしてあちらのお宮様、あちらのお寺様、と云う様にして、お参りになったですから。
自然神仏に手を合わせると云う事が、有難い事だと言う様な事ではないでしょうがけれども、とに角そう云う雰囲気は段々お好きになられた。ああした天地の親神様から御信用を頂かれ、天地金之神と同根と云われる様な所まで、御神格をお進めになられた。だから幾らお好きであったからと云うて、初めから本当な神様を、本当な信心をなさったと云う事ではない。言うならばいかに好きであっても、矢張り拝むと云う事も好きだけれども、おかげも好きでおありになったと云う事なんです。
自分が、体が弱いから、矢張り神仏様にお縋りして、健康なお蔭を頂きたいと、私は思うですけれども。初めから本当な事を求めて入信して来る人って、先ずないと思う。昨日でしたかしら、一昨日でしたか、私あのうず潮って云うのがあってますね、昼午後あれをもう、ほんのちょっとでしたけれども、ちょっと見せて頂いたんです。そこんとこちょうど、林芙美子ですね。
林芙美子がなんか、御主人と話しておるところだけ、ちょっと見せて頂いたんですけれども、こりゃぁ私達何時死ぬやら分からないって云った様な事を、話しておる。だから少し宗教書でも読まなければいけないって云った様な事を言ってるんですね。人間は若いとか、年を取ったからって言う様な事で、若いからと云うて安心はしとられないと、何時どんな事があるやら分からんから宗教書でも読ませて貰たいと言った様な事を、そこだけは、聞かせて頂いたんです。
けれどもね、本当人間の一番の大事は。私は生死だとこう思うですね。生きる事死ぬる事、だからその人間の重大事である所の、死に対する所の取り組み方。それを教えるのが宗教だと。だから宗教をする、信仰すると云う人は、先ず少ないし又もしあってもです。それは本当の事にあたられないで、私終えるじゃろうと思います。ここにおかげの素晴らしさがあるのですよ。
御利益を、軽蔑する人がありますけれどもね、実を云うたら、御利益があって、始めてそうした高度な信心にも進んでゆけるんですよ。ですから例えば、教えでもそうです。昨夜でした。桜井先生と、それから久富先生、繁雄さん、山口から見えておられます中村先生と、後2・3人でした。色々信心話しをさせて頂いて、最後にです、とに角生きた神様だから、こちらの心が生きとかなければ駄目。
交流する為には、そん為にはねぇ、嘘でもいい冗談でもよい、相手の心が生きてくると、それがその生きるその事が神様と交流するのだと。例えば、我々の(?)の中にでもです例えば御信心話しを頂きよった時でも、眠うなりよった、眠うなりよったけど、その笑い話しでポッと心が目が覚めた。途端に心が生きてきた。その生きた心にそっと何かを神様が与え様となさる。心が生きとらなければ与え様が無い。交流しない。枯れた物と生きた物とでは継ぎようがない。そんな訳なんです。
ですから私共の心がです、どう言う様な事から生きて来るのかと云うと、矢張りおかげを頂きたいと云う、心から生き々した信心が出来るのです。実を言うたらね。ですからね教導と云うか神様の、私共に対する所の働きかけと云うものは、例え嘘の事からでも信心になりだして頂きたい。嘘の事からでも神様は有難いと云うものが分からせたい。それから徐々に、段々本当なとこへ、本当なとこへとお導きをさして下さる。
私今朝こんなお夢を頂いた。『ある商売人の方なんです。もう何回も何回も商売不振だから、商売を止めたいとじり貧なって行くばかり、借金が大きくなって行くばかりだから、今の内に見切りを付けて、その商売を止め様と、こう云う訳なんです。その人に、私が話してるんですね。「あんた○○さん、この頃から商売止めたい、止めたいと言いよったろうが」「はぁもう、そんなら止めてもいいと思います」って、「そんならね、店仕舞いする積りで安売りしなさい」って事を私が言うとる。」
店仕舞いをする積りで、御商売を止めるつもりで、店仕舞いする積りでもう損とか得とか云うておれない。もうとに角商品を片付けある物は原価の物もある、原価以下の物もあろう、少しぐらい利益の掛っとるともあろう「とに角店仕舞いする積りで、安売りをしなさい」そしたら、「はぁそうですなぁ」と、言ってるんです。そして決して店仕舞いするけん、安売りをしょると云う事を、お客さんに言いどもしなさんな、あんたの心の中だけ店仕舞いする積りで安売りしろと。
さぁ安かけんでお客さんが次々と来らっしゃる、と云う様なケチなお蔭じゃないよ。安かけん来るぐらいなお客さんじゃなかて、店仕舞いをするごたる心もちでです、一つ、言わば、正札を入れ替える。「そうですなぁ」と言うて、その、「そうですな」と言う気持ちになる事。「そうですなぁ」とその気持ちに、神様がおかげを下さるんですよと、ですから私共は店仕舞いする積りで、「安売りしますけん、どうぞ買うて下さい」と、なんもそれを言うちゃぁならん。
そして、その、神様の前に云う事。例えば、「10銭の物は8銭で売ると、目先は2銭損なようだけれども、数ようけ売ればその方が得だ」と云った様な事を教祖が教えておられますが、いや期せずしてそう云う事になって来る訳なんです。教祖の仰る通りの様な事になって来なければならない。けどもその目的が違うでしょうが、片一方は店仕舞いするごと気持ちでしょう。
お客さんが喜んで下さる為にとか、神様に喜んで頂く為にではないでしょうが。手段は違うけども、結果は同じ事になるでしょうが。そう言ってる意味が、皆さん分かるでしょうか。その人の方がですね、私がですよ、お道の信心させて貰うなら商売さして貰うなら、お道の信心によって、教えを基にして、商売させて貰うならば、10銭の物は8銭に売らんにゃぁいけんよ。
信用先を大事にせにゃいけんよ、お客さんを大事にしなければいけないよと云うた分には、云う事を聞かんの。皆さんもそうでしょう、まそりゃぁそうする事が分かっとるけど、中々でけん。今10銭の物は11銭で売れる事の方がおかげと思うとる人すらあるのだから、あたしゃそうだった、あたしゃ商売人だから、私は商売人ですからね、本当にそれがおかげと思うとった。
又、その様なおかげ頂いて来た。ですからそれは、中々です。人間は欲がありますからですね、教えはそうじゃろばってん、そんな訳には行かんと云うて、矢張り10銭の物は10銭で、その売っておったんでは、成程お取次頂いて、おかげのお繰り合わせ頂きますから、万事そのタイミングようおかげを頂きましょうけれども、それは大した事はないです。そうでしょう。
そこでです、その人の場合はです、もう店を止めたいと言うておる。何度も何度も止めたいとお届けもしておる。もう赤字でこれじゃぁ家もじり貧になって行くだけだと言っておる。それでも、やっぱり安う売り切らん。そこで店仕舞いする積りでと言うたら、相手の心が「はぁほんにそうですな」と、腹が決まった。(?)そして神様の前にです、店仕舞いする積りで、安売りをせろと言われた。その事が、神様のお言葉通りにならせて頂く事が出来た。
そしておおその辺が素晴らしい所ね。お客さんにも、店仕舞いの積りで、安売りしますけん買うて下さいと、いった宣伝もなんも必要ではない。目的は、実際の目的はちょっと違うけれどもです、そう言う事によって、本人の気持ちが、「はぁ、そうですな」と、こう生きて来た、これ店仕舞い、もう店を止めるつもりならば、どげな安う売ったっちゃよかたい、いくら銀行に借りに行かなければと思っとったけれども。
ほんに店仕舞いする積りであったら、幾ら安う売ってもよかたいという気持ちに、はぁ(?)心が生きて来た、その生きた心で、その生きた心がもう神様に通うた。素直に神様の、その言うた事を聞いた。聞いた事がです、もうそこにはですね。神様の言わば私が何時も言う。兆が付く様なおかげになってくる訳。 宣伝した事位だけの事じゃない。神様の言う事を、聞かせて頂いた。
その素直な心に、特別な、神様の御神徳の働きと云うものが始まるのだと。何とはなしにその店で買いたい、買おうかと言った様なお客さんが段々見えて来る。実際買うて見た所が成程安かった。安かったからそれが次から次と、あそこはどこよりか安かばい、と云う様な宣伝は、その人達がしてくれると云う事なんです。どうでしょうね皆さん、本当店仕舞いする気持ちでです、御神意に添わせて頂く。
有難いなぁ「この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」と、教祖様は仰った。「この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」と、その喜びとはどう云う様な喜びを持って喜びと言うのだろうか、「喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」苦労せんですむと言った様な喜びは、どんな喜びだろう、はぁ毎日信心さして頂いて、有難い御理解頂いて、有難い有難い、喜びよるごとある。
けれども苦労しよるとするならば、その喜びはほんなもんじゃないでしょうが、「この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と、仰る様な喜びとはどんな喜びだろうか、お願いをしておかげを頂く、「はぁ、お蔭ちゃ有難いもんじゃある」 成程それも喜び。けれども私思うのに、本当に私共が神様任せにならせて頂いてです、神様がこうと仰ったからこうさせて頂いた所からです、現れて来る所のお蔭いわば夢にも思わなかった様なおかげ、ね。
そう言う様なおかげが頂けてこそです、しかもそれが何時も絶えず、そう云うおかげが頂けてこそ、私共は喜べるのじゃないだろうかとこう思う。ね、神様のおかげには、恐れ入ってしまうなぁと云う、その喜びなんです。只この事を右にお願いします。左にお願いしますと言うた事が成就したぐらいな喜びは、そん時だけのもんじゃ、体験にはなる。例えば、その店仕舞いする気持ちで、本当に教えに基づいてと云う事。
それは教えに基付いてでもです、たったそこんにきの所がちょっとね、教祖がこう教えておられるから、こうしなさいと言うた分では、言う事を聞かんから。店仕舞いする積りでと。そこに、そこんにきが御理解力だと、私思うんです。教導力だと思うんですたい。はぁ、ほんにそうだなぁ、もう店仕舞いする積りで言わば神様任せになった訳。そこに、その生きた神様の働きとの交流が始まる。
そこには、安かけんで売りよると云うのじゃない。神様任せにならせて頂いた事がです。「氏子が神様任せなら、神様は氏子任せになって下さる」と、言う様な、特別な神徳の働きと云う物が始まる所にです、こりゃとても安う売らんにゃ馬鹿らしかと云う事になって来る訳、どう云う事かと云うと、御教えに添わなきゃ馬鹿らしか、と云う事になって来る訳なんですよ。
教えに添うて行かなければ馬鹿らしいと云う事が、体験出来る所からです心の安らぎが頂けます。はぁこの教えを行じて行く以外にはないな。ま商売だけ商売その事だけではない。あの事もこの事も教え任せに、言わば教え通りにすると云う事が、有難い事だと云う事が分かって来る。切っ掛けは、ちょっとこう引っ掛けられた感じだ。神様からそして段々本当な事になって来る訳なんですよ。成程教えを行じると云う事は、こんなにも有難いものだと云う事が分かるです。
皆さんも、あれをあげん何時も引っ掛けられよんなさる神様から。何故ってそう言わなきゃ、皆さんが言う事を聞かんから。只そこん所を、もっともっと、このすっきりしたですね(?)かね。信心が、私必要だとこう思うね。その事で、その事は実際本当じゃないのだけれども、その事から、教えを行ずる事の有難さと云うかね、はぁ教えさえ守らせて頂いときゃこう云うお蔭が頂かれる。
尽きぬおかげが受けられると、そんな御商売の事だけではない、人間の生き方すべての上にです、教えに基づいた生き方さして頂きさえすりゃ、こう云う、兆の付く様な人間のおかげに触れる事が出来るんだと云う所に、心の安らぎ言わば安心のおかげが頂かれるのです。私、信心の究極どころはです、その氏子の心の救いだと、こう思うですね。心の安らぎだと思うですね。魂の助かりだと思うですね。
教えによってです、初めの間はそう云う、その御利益おかげと云った様な事からです、行じた教えではあったけれども、教えを行ずる事が、こんなに有難い事であると体験させて頂いた時です、成程、教えを行じておれば、こんなにも心が安らぐものであると云う事が分かって来て、いよいよ魂が助かってゆく。いよいよ魂が清められて行く。この魂がです永遠のものであると云う事に、段々分からせて頂く信心の、言わば本当な事に、ところへこうね神様が誘導していって下さる。
そして林芙美子じゃないけれども、人間は何時死ぬやら分からん。年寄りだから若いからと云う訳にはいけん。これが本当に人間のそうした重大事に対してです、慌てんで済む様なおかげを頂く為に、宗教書の一つも繙かせて頂こうかと云う様な、言わば本当な目的ですたい。本当な目的がそのおかげと、御利益と心の安らぎと、心の助かりと云う事によって、その事に開眼すると云う事。
御利益と云うのはそんなに、だから有難いものなんです。御利益を軽蔑しちゃぁいけません。御利益が伴なわない所の宗教なんて、もうおおよそ私は意味ないと思うね。本当に尽きぬおかげが頂けれる。限りないおかげが頂けれる。教えを行じてさえいきゃぁ有難いんだと。愈々魂が助かる。その魂が言わば新たな宗教的死生観と云うものに成って来る。のおかげが人生観が変わるお蔭によって、大変こりゃ今日のお話しは、えらい高度なお話しなんですよ。
実を云うたら、そう言う風にして、段々神様の御教導を頂かせて、頂いて信心の本当の救いと云う事魂の助かり、しかもその魂の助かりがです自分も助かり、成程こう言う助かりでおかげげを頂けばです、例えば死したる後でもです、この魂があちらで助かる事が出来るから、死に対する所の安心が生まれて来るのですよ。
死と云うものが、恐いものではないと云う事が、分かって来るのですよ。魂が助かるから。 一番初めはどうですか、店を止めよか、止めまいか、どうでもおかげを頂きたいと云うて参って来よった。商売繁盛のお繰り合わせを願いよった。頂いたり頂かじゃったり、ははぁ神様のおかげちゃぁ、あるもんじゃぁある。又はありゃあの間一生懸命お願いして、おかげ頂かじゃった、頂いたり頂かじゃったり、てな所からです、信心に入って来るんです皆んな。
そして例えば只今私お夢の中で教導させて頂いた様な教導に、お互いが触れた時です本当な事じゃぁない。教祖の神様は「10銭の物を8銭で売れ」と仰るけどそうしなさいと。言うたもんじゃぁ言う事を聞かんから、店仕舞いする積りで大安売りをしたらどうかと云う事で、そう云う事になった。はぁほんに店仕舞いする積りでなら、出来ん事なかと云う事でそう云う事になった。
神様の言わばそうしたお言葉に対してから、素直に生き生きした心でそれをキャッチして、言う事聞く事が出来る様にならせて頂いた安売りしたけんではない。神様任せにならせて頂いたから、神様が氏子任せになって下さるような、兆がつくようなお蔭になって来た。これは、教祖の神様の教えて下さる事を守りさえすりゃぁ、おかげだと云う事が本当に体験をもって、体験を通して分からして頂く様に成って来たら、たましいが助かって来た心が安らいで来た。
この魂の助かりがです、人間の重大事である所の死に対してでもです、恐怖感と云う物がなくなり、この魂の助かりがです有難いなぁ。私「この方の道は喜びで開けた道」と云うのは、そう云う意味合いに於ての喜びと私思うんです。心が安らいで行く助かって行く。その喜びがです日々のおかげにつながって行く。御利益につながって行く。この調子で行きゃまぁいよいよ霊柩車を前に、私を迎えに来た時でもです。
私はそんなもんには乗らんと、なんて言う事はいらんと云う事。有難く合掌して乗れると云う事。この世で有難い、魂の助かりを頂かずしておいてから、あの世だけで魂が助かるはずはない。この世で助からせて頂いておってです、この世で有難いなぁ、この世で、本当の喜びと云う物を、分からして頂いておって、その喜びが、あの世迄持ち続けられて行くと云う所にです。
いよいよの助かりを感ずる事が出来、それを信ずる事が出来る所にです、私は本当は宗教の使命は、そこにあるのではないかと思うんです。まず始まりは、御利益からね、御利益の伴わない、私、最近、お道の信心の中にでもですね、御利益の事を云う事を、非常に嫌う先生方があるです。お蔭話しはいかん。道の話しをせよ。教えを説け。ちょっと可笑しいですよね。願う氏子におかげを授けと仰る。
先ずおかげを」授けて行くと云う事、そして只今、私夢の中で教導さして頂いた様なです、神様の人間の心を自由自在に、いわゆる死活自在と云う、生かすも殺すも教導者の、言わば信心一つです。生かされたり殺されたり、場合によっては半死半生、そして心が鍛えられて行く所に、心の真実の助かりと云う事になって来て。 結局は、成程なぁ神様の仰せ通りに仕えておればいいのだなぁと云う事、教えて下さる通りの事をさして頂く事が、こんなにも楽な事だと云う事をです。
あれよあれよと引っ掛けられてもいいから、そこの体験をまずもつ事だと云う事。 只、日々です、非常に難儀なこの事、困った事など、例えば、商売繁盛なら、商売繁盛の事だけを、おかげを頂くと云う事だけではなくてです、どう云う形からでもよいから、教祖の御教えを行じての商売繁盛であり、健康のおかげであり、人間関係解決のおかげであると云う事になって来なければならない。
そこにです、私共がね日頃、いよいよ素直な心にならせて貰う。素直な心で古賀先生でしたか、もうここへ参りました一年半も前だったでしょうか、(?)あの人体が弱いから御神酒を頂きなさいと云うのじゃなかったと。体に頂くのじゃないって、心に頂くのだと。どうぞ素直にならせて下さいと云うて、御神酒を頂けって言う事じゃった。御神酒ちゅうものは、怪我した時とか、どうかある時だけじゃないですばい。
自分の心が本当に汚い、私の心はこんなに汚いだから御神酒に試乗させて頂こう。素直じゃない心に、どうぞ素直にならせて下さいと云うて、御神酒を頂けと云うて、御神酒が下がった事があるんですけどね。 そう云う意味合いに於て、素直にならなければ、神様はちょっと引っ掛けて下さるのに。中々引っ掛からん。素直でないから、「はぁほんにそうですな」と、教えをそのまま生の心で、生き生きした心で、それを教えをふっとこう受け止める事が出来んのです。
どうぞ一つ、皆さんが生きたいわゆるおかげを頂かなきゃなりません。御利益を受けなければなりません。同時に私共の心がです、それによって段々心の安らぎ、魂の助かりその魂の助かりがです。いわゆる天地の親神様が、一番求め給う所の、「氏子、信心しておかげを受けてくれよ」と仰る。教祖の神様は、「この方の道は、喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」と仰る。その苦労せんで済む様な喜びとは、どう云う物かと云うと、その喜びを求めての、お互い信心にならなければいけないと云う事ですね。
おかげ頂きました。